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つくば市の文化財
つくば市内にある遺跡などの歴史的施設を紹介。
筑波地区 平沢官衙遺跡ひらさわかんがいせき国指定史跡。平沢官衙遺跡は、奈良・平安時代の筑波郡の郡役所跡。1975(昭和50)年、 住宅地造成のため行われた発掘調査で大型の高床式倉庫があったと見られる柱の跡などが発掘された。 現在は、3棟の倉庫が復元され、「筑波の正倉院」として「平沢官衙遺跡歴史ひろば」として公園となっている。3棟並んでいる倉の中心にあるのが「土壁双倉」(つちかべならびくら)。 高床式で真ん中に壁が無い特徴ある造りで、米や雑穀などを保管する倉庫は左右にある。 屋根は茅葺。右側(東側)にあるのが「校倉」(あぜくら)、左側(西側)にあるのが「板倉」。公園前には案内所と駐車場がある。 2023(令和5)年11月13日から2024(令和6)年3月22日まで「平沢官衙遺跡実物大復元建物再整備工事」 として傷んだ茅葺き屋根の葺き替え工事が実施された。 歴史ひろば詳細はつくば市の文化施設つくば市の文化施設へ。 つくば市平沢3531ほか。平沢官衙遺跡の地図 ![]() ![]() 復元された土壁双倉(左)と全景(右) ![]() ![]() 復元された校倉(左)と板倉(右) ![]() 屋根の葺き替え工事中の土壁双倉 小田城跡おだじょうあと 小田城跡は、つくば市小田にあった中世の城。歴史的重要性などから1935(昭和10)年に約21.5ha(東西500m、南北600m)が国の史跡に指定された。 中心の方形の曲輪(本丸)を中心に三重の堀と大小の曲輪が取り囲んでいる。なお、本丸跡の中央を対角線上に鉄道の軌道があったが、廃線後つくられた自転車道は、迂回してつくられている。 源頼朝に仕えた武将・八田知家が築いたとされ、鎌倉時代から戦国時代末まで、この地方で勢力を誇った小田氏の居城。 特に南北朝時代、南朝方の関東における拠点として知られる。1338年から3年間、南朝の武将・北畠親房が城主・小田治久を頼り滞在し、東国での南朝方勢力の拡大を図るとともに、『神皇正統記』『職源鈔』などを著した。 小田城跡は「小田城跡歴史のひろば」として整備されている。 歴史ひろば詳細はつくば市の文化施設つくば市の文化施設へ。 つくば市小田2377ほか。小田城跡の地図 ![]() ![]() 小田城跡本丸南側にある涼台から本丸の東池などを望む(左)、涼台の「史蹟小田城址」の碑=現在は移転(右) ![]() ![]() 小田城跡、本丸の南西側にある馬出曲輪(左)、本丸の北側にある北堀(右) 宮本家住宅 醤油の醸造と販売を行っていた老舗。江戸時代末から明治時代に建てられた店蔵、居宅、門、大蔵など8棟が2003(平成15)年、 国の登録有形文化財となっている。 つくば道近くにある県道に面して建つ店蔵は、白い漆喰塗が特徴の土蔵造。黒い瓦屋根との対比が美しく、通りのシンボルとなっている。 つくば市北条188。宮本家住宅の地図 ![]() 宮本家住宅の店蔵 旧常陸北条郵便局 1933(昭和8)年建築。昭和初期に建築された洋風地方小規模郵便局の好例という。 現在はカフェとして利用されている。2015(平成27)年10月国登録有形文化財。 つくば市北条183。旧常陸北条郵便局の地図 ![]() 現在はカフェとして使われている旧常陸北条郵便局(中央の建物) 旧田村呉服店 大正期に建築された商家。通りに面した店蔵兼主屋は、寄棟造りの2階が2つ並んだ特長ある外観になっている。 現在は北条ふれあい館として地域の交流の場ともなっている。 店蔵兼主家など4棟が、2015(平成27)年10月国登録有形文化財。 つくば市北条39。旧田村呉服店の地図 ![]() 旧田村呉服店 旧六所神社跡地 六所皇大神宮。六所神社は、筑波山神社の里宮として、神武天皇の時代に創建されたと伝えられている。石碑には六所皇大神宮跡とある。 坂上田村麻呂が東征の際、銅鏡、宝剣、馬具などを奉納し、戦勝祈願した。その後凱旋し、石鳥居を奉納した記録が残っている。 筑波山神社の御座替祭は、ここにあった六所神社との間で行われていた。 なお、六所とは筑波山に祀られている筑波男神、筑波女神、素盞鳴命、月読命、蛭子命、天照大神の六神を指す。 筑波男神、筑波女神は双峰に、素盞鳴命は安座常神社、月読命は小原木神社、蛭子命は渡神社、天照神社は稲村神社に祀られている。 明治初期の廃仏毀釈で、筑波山神社の拝殿が中腹に造られたことに伴い、氏子の大半が筑波山神社に編入され、維持が難しくなったため、神霊は蚕影神社に合祀され、社殿は取り壊された。 現在跡地には、鳥居や石碑、天照大神の腰かけ石などがある。 つくば市臼井。六所皇大神宮の地図 ![]() 六所皇大神宮 矢中の杜 つくば市北条にある旧矢中家住宅。実業家で建材研究家でもあった矢中龍次郎氏が昭和初期に建てた邸宅。国指定重要文化財。国登録有形文化財。 旧矢中家住宅主屋、離れ、石蔵及び石塀、擁壁及び横井戸の3棟1基が指定されている。 石蔵及び石塀、擁壁及び横井戸が1938(昭和13)年ごろ、主屋が1942(昭和17)年ごろ、離れが1949(昭和24)年ごろの建築。 現在「矢中の杜」として管理運営をNPO法人が行っており、主に土曜日に公開されている。 つくば市北条94−1。矢中の杜の地図 ![]() 矢中の杜 つくば道道標 つくば市北条のつくば道入口にある道標。よく見られる道標に比べ大型で、つくば道を代表する景観のひとつとなっている。 高さ約3m、花崗岩製。正面に「これより つくば道」、「東ひだり きよたき つちうら かし満」「にし おふそね いちのや 江戸」と刻まれている。 道標は最初、1715(正徳5)年に建立された。現在に残る道標は1798(寛政10)年の再建。 なお、揮毫した書家が本来「おおそね」とすべきところを誤って「おふそね」としてしまったことから、それを恥じて自裁したという話も伝わっている。 つくば市北条。つくば道道標の地図 ![]() つくば道道標 石造宝篋印塔せきぞうほうきょういんとう 宝篋山の山頂にある。鎌倉時代中期の作で、関東最古の宝篋印塔とされる。1971(昭和46)年1月28日、茨城県指定文化財。 つくば市小田宝篋山頂。石造宝篋印塔の地図 ![]() 山頂の石造宝篋印塔 八幡塚古墳はちまんづかこふん 古墳時代後期、6世紀前半の前方後円墳。全長約90m、後円部の直径約58mで3段、前方部は長さが約32m、幅約35m、2段以上。 桜川流域で最大規模の古墳。国造だった阿閉色命(あべしこのみこと)の墳墓との説もある。 前方部脇には八幡池があり、周溝の名残と見られる。茨城県指定史跡。後円上には八幡様が祀られている。 つくば市沼田374−1、374−2。八幡塚古墳の地図 ![]() 南側から見た八幡塚古墳。右側が方墳部、左側の樹木が生えている部分が円墳部。奥の山が筑波山 臼井薬師堂 781(天応元)年、筑波山の薬師嶽から飛来した筑波両大神の御神託を受け、翌782(延暦元)年、薬師堂を建立したとされる。 現在の薬師堂は1760(宝暦10)年の再建。 桃山時代の作とされる薬師三尊像(薬師如来立像、日光菩薩立像、月光菩薩立像)と十二神将(現存は11体)がある。 扁額には医王堂とある。堂の脇には銀杏の大樹がある。 つくば市臼井。薬師堂の地図 ![]() 薬師堂 石造地蔵菩薩立像せきぞうじぞうぼさつりゅうぞう 1289(正応2)年建立。鎌倉時代後期の作。像高157.5cm。1962(昭和37)年10月24日、茨城県指定文化財。別名「湯地蔵」といい、安産と乳が出ると信仰されている。 建立したのは小田家の家臣、左衛門尉。当時この地区には、1252(建長4)年、奈良・西大寺の僧・忍性が訪れ、律宗の普及に努め、極楽寺という寺があった。 忍性は1261(弘長元)年、鎌倉へと移動したが、建立当時は、それらの影響を受けたものと考えられている。 像は、約70cm角の柱状花崗岩を使って彫られている。本体、蓮華座などを彫り、その両側に幅約60cm、厚さ約16cmの側壁、及び屋蓋を載せたとみられる。 つくば市小田。石造地蔵菩薩立像の地図 ![]() 石造地蔵菩薩立像 磨崖不動明王立像 つくば市小田の前山の中腹にある高さ6mの巨大な花崗岩の崖面に彫られている。本格的な浮彫で、像高167.5cm、像の奥行8cm〜16cm。 建立されたのは12世紀前半と考えられている。1984(昭和59)年5月24日、つくば市指定文化財(当時筑波町指定文化財)。 小田不動尊として祀られており、像の前には社殿がある。また像には通常、御簾がかけられいる。 不動尊の縁日である毎年1月28日に、御簾替えが行われ、この時、像を見ることが出来る。 つくば市小田。磨崖不動明王立像の地図 ![]() ![]() 初不動で御開帳された磨崖不動明王立像(左)、磨崖不動明王立像がある巨大な花崗岩、縁日以外は御簾がかけられ不動明王像は見ることができない(右) ![]() ![]() 不動尊(左)、参道(右) 三村山不殺生界碑 みむらさんふせっしょうかいひ 鎌倉時代、この地にあった極楽寺周辺で生き物を殺すことを禁じることを示す石碑。 現在は小田地区の集落内にあるが、当初は宝篋山麓にあったと推測されている。つくば市指定文化財。 雲母片岩(平沢石)製で、高さ約155cm、幅約122cm、厚さ約16cm。中央に「三村山 不殺生界」と書かれている。 また建立された時期を示す「建長五(1253)年癸丑 九月十一日」の銘がある。 つくば市小田3128。三村山不殺生界碑の地図 ![]() 三村山不殺生界碑 神皇正統記起稿之地碑 小田城は南北朝時代、南朝方の東国の有力な拠点だった。北畠親房が南朝方の正当性を記した「神皇正統記」は小田城滞在時に書かれたもので、同碑はそれを記念して建立された。 最初は小田城跡内に建立されていたが、現在は旧小田駅跡に移されている。 つくば市小田。神皇正統記起稿之地碑の地図 ![]() 神皇正統記起稿之地碑 後生車 小田地区の西側にある。1900(明治33)年の建立。高さは約3mほどある。 石柱の途中に円盤状の回転する石板が縦についており、これを1回転させると、経を1回読んだことになるという。 つくば市小田。後生車の地図 ![]() 後生車 金掘塚 直径12m余りの円墳。一部が欠損している。また、横穴式石室が表にでている。 直刀、勾玉、金環が出土しているという。 つくば市臼井。金掘塚の地図 ![]() 金掘塚 十三塚 堤防上の遺構。長さ約200m、堤防中央部の幅はおよそ16m。現在は、逆川の上流、水田のなかに川と直角に南北にある。 塚がある臼井地区は、北側を筑波山、東側と南側を同じく筑波山系の山に囲まれており、上流側(東側)からの水流を堰き止め、ダムのようにして池を造ったとみられる。 また、筑波山へ向う参道のような役目をした宗教施設などとする説もある。 つくば市臼井。十三塚の地図 ![]() 十三塚の南側 宝篋山峰城防御堀 かつてあった宝篋山峰城の防御堀。東側からの登山道の山頂の手前にある。 つくば市小田。宝篋山峰城防御堀の地図 ![]() 宝篋山峰城防御堀 筑波山知足院中禅寺鐘楼 現在の筑波山神社の場所にあった知足院中禅寺の鐘楼が慶龍寺に移築されている。 鐘楼は江戸時代に建立された。しかし、明治に入っての廃仏毀釈によって多くの仏教施設が破壊された。 鐘楼は難を逃れ、同地に移築されたもの。慶龍寺には、1873(明治6)年に上棟、翌1874(明治7)年に鐘供養を行うとの記録が残っている。 つくば市泉2348。慶龍寺の地図 ![]() 筑波山知足院中禅寺鐘楼 毘沙門天種子板碑 板碑には、古代インドの文字で毘沙門天を表現している種子を形象化し彫ってある。 雲母片岩で高さ約170cm、幅82cm、厚さ14cm。鎌倉時代の作と見られる。つくば市指定文化財。 つくば市北条。毘沙門天種子板碑の地図 ![]() 毘沙門天種子板碑 八坂神社石造五輪塔 つくば市北条の八坂神社境内にある。八坂神社の別当寺・吉祥寺の境内にあったものを、明治の廃仏毀釈の際、同神社境内に移したものとされる。 高さ201cm。材質は花崗岩。五輪塔は、上から空輪、風輪、火輪、水輪、地輪と呼ばれる。空輪、風輪が大きく、火輪の軒の出が小さいのが特徴。 1537(天文6)年の銘がある。茨城県内では、土浦市(旧新治村)の頭白上人五輪塔に次いで古いもの。茨城県指定文化財。 つくば市北条102−1。八坂神社の地図 ![]() 五輪塔 鬼子母神 つくば市山口、宝篋山山裾の山の斜面にある。 つくば市山口。鬼子母神の地図 ![]() 鬼子母神 立野大師堂 臼井立野 新四国八十八ヶ所大師堂。つくば市臼井の立野地区にある。江戸時代後期から明治時代の石仏で弘法大師像87躯、 如来、菩薩、明王像88躯の合わせて175躯があり「立野大師堂石仏群」として、つくば市認定地域文化財に指定されている。 伝承では、1832(天保3)年に立野に住む皆川重兵衛が、四国八十八ヶ所霊場の霊山寺から持ち帰った土で土地を清めて 弘法大師像を安置したことに始まるという。1913(大正2)年、「新四国八十八ヶ所弘法大師尊霊場」として、 筑波山南麓に巡拝路を整備し大師像は分散して置かれていた、その後大師堂に集めて収められた。 つくば市臼井1667−1。立野大師堂の地図 ![]() 立野大師堂内の石仏群 大師堂 小田 つくば市小田の小田前山の山裾にある。小さな88体の石の大師像と御堂がある。 全ての像を巡拝すると四国八十八ヶ所霊場と同じ御利益があるとされる。また、庚申塔と思われる石塔の下部には三猿が彫られている。 極楽寺があった時代、この場所にも寺があったと見られその遺構と考えられている。 つくば市小田。大師堂の地図 ![]() 大師堂の石像 ![]() ![]() 石塔に彫られている三猿(左)、石塔全体(右) 虚空蔵堂 つくば市上大島にある。虚空蔵菩薩を祀る。旧自在院。境内に淡島社がある。 堂は、2010(平成22)年1月再建。 つくば市上大島。虚空蔵堂の地図 ![]() ![]() 背後に筑波山が見える虚空蔵堂(左)、淡島社(右) 日向廃寺跡 平安時代から鎌倉時代にかけての寺院跡。筑波町時代に町営団地建設工事中に多数の土器、瓦、礎石が発見されたことによる。 これまでの調査で明らかになった礎石建物跡は、中心に東西3間、南北4間の堂が位置し、そこからやや幅の広い廊下が東西に張り出し、そこからさらに廊下が南に突き出している。 東側部分は失われている場所が多い。これらの遺跡から、中央の堂に東西の回廊を持つ阿弥陀堂建築と推定され、京都・宇治の平等院に似た左右対称の寺院と見られている。 また、一度火災で焼失した跡も残っている。建立者は不明だが、当時この地方を多気氏が治めており、しかも多気城のすぐ真下に建築されていることから、多気氏によるものと推定される。 なお、日向廃寺の名前は、当時呼ばれていたものではなく、現在の地名から名づけられたもの。つくば市指定文化財。 つくば市北条。日向廃寺跡の地図 ![]() 日向廃寺跡 多気太郎の墓 常陸平氏の嫡流である多気氏の第6代、多気太郎義幹の墓と伝えられる。義幹は、領民のために無量院裏池や裏堀を開削するなど、 農業振興を図り、名君として領民から慕われていた。 しかし、鎌倉時代になると小田氏(八田知家)の謀略によって、領地を没収された上、駿河国に預けられ、当地で亡くなった。 遺臣らが、遺徳を偲び建立したされる。 つくば市北条。多気太郎の墓の地図 ![]() 多気太郎の墓 極楽寺五輪塔ごくらくじごりんとう 三村山清冷院極楽寺奥の院の五輪塔。鎌倉時代後期に作られたもので、奈良西大寺系の石工の流れをくむ作品。 1984(昭和59)年5月24日、つくば市(当時筑波町)指定文化財。 鎌倉時代の極楽寺は、壮大な伽藍を有していたと考えられている。現在の遺構はこの五輪塔のみ。 つくば市小田。極楽寺五輪塔の地図 ![]() 極楽寺五輪塔 延寿院石造五輪塔せきぞうごりんとう つくば市小田の延寿院にある。茨城県内で3番目に古い五輪塔。水輪には穴がほられ経筒が納められている。 地輪の銘文には、1538(天文7)年、妙西禅尼らの33回忌供養のため造立との記載が見られる。 妙西禅尼が誰なのかは分かっていない。1962(昭和37)年10月24日、茨城県指定文化財。 つくば市小田3048。延寿院の地図 ![]() 延寿院石造五輪塔 長久寺石造灯篭せきぞうとうろう つくば市小田の長久寺境内にある。鎌倉時代中期の傑作とされる。石灯籠としては関東最古であるほか、全国的にも珍しいという。 中台に関東形式の特徴を残している。笠に一部欠損がある。 石灯籠は、もともと極楽寺にあったもので、上記の極楽寺五輪塔と同じ奈良西大寺系の石工の流れをくむ作品である。 いつごろ、長久寺に移されたかは不明である。1962(昭和37)年10月24日、茨城県指定文化財。 つくば市小田2716。長久寺石造灯篭の地図 ![]() 長久寺石造灯篭 石造六角地蔵宝幢 つくば市平沢の八幡神社の社殿前にある。茨城県指定文化財。16世紀末のもの。花崗岩製で高さは168cm。 つくば市平沢。石造六角地蔵宝幢の地図 ![]() 石造六角地蔵宝幢 旧長島家土塀 土塀は、19世紀後半、江戸時代から明治時代にかけての「瓦積土塀」で、当地方では珍しいものという。 保存状態のよい一部分を残した。山麓地域観光資源整備事業補助金を活用、地元の小学生なども授業の一環として修復活動に参加、 2015(平成27)年7月20日、修復完成した。 長島家は、代々小田村田向の名主を務めた家で、幕末には尉信(やすのぶ)が農政学者として活躍した。 長島家の土地は2012(平成24)年、当主からつくば市に寄贈があった。現在は筑波山麓小田駐車場として整備されている。 長島家ゆかりのものを残してほしいという地元の要望もあり土塀の一部を保存修復した。 つくば市小田2716。筑波山麓小田駐車場の地図 ![]() 旧長島家土塀 神郡十字路道標 神郡地区の北部、点滅信号十字路の北西の角にある道標。昭和天皇の即位記念として1928(昭和3)年に設置された。 筑波山方面へ向かって正面には「右(手の形の)矢印 立野を経て小幡方面」「左(手の形の)矢印 大貫を経て下館真壁方面」とある。 また左側面には「御大礼記念 昭和三年 神郡青年会」と刻まれている(一部旧字体、一部判読出来ず)。 つくば市神郡。神郡十字路道標の地図 ![]() 神郡十字路にある道標 神郡変則十字路道標 神郡地区のほぼ中央部、つくば道の変則十字路にある道標。昭和天皇の即位記念として1928(昭和3)年に設置された。 筑波山方面へ向かって正面には「右(手の形の)矢印 蚕影山道約二丁行右へ 筑波町約十二丁」「左(手の形の)矢印 漆所を経て大貫下妻方面」とある。 また左側面には同じく「御大礼記念 昭和三年 神郡青年会」と刻まれている(一部旧字体)。 つくば市神郡。神郡変則十字路道標の地図 ![]() 神郡の変則十字路にある道標 宝篋山旧参道入口 つくば市小田にある宝篋山の参道入口。宝篋山の山頂には浅間神社が祀られており、小田地区から同神社に参拝するためのメインルート。 冨岡山を経由するコースで、現在は国道125号で分断されてしまっているが、いくつもの石段が確認されいる。 旧国道沿いの旧参道入口には「富士大神」と刻まれた石柱が残る。 つくば市小田。宝篋山旧参道入口の地図 ![]() 宝篋山旧参道入口の石柱 不動尊北太田 つくば市北太田にある不動尊。 つくば市北太田。不動尊の地図 ![]() 不動尊 三日月尊小田 つくば市小田にある三日月尊。 つくば市小田。三日月尊の地図 ![]() 三日月尊 水守城跡 つくば市水守、北側に突き出たいわゆる舌状台地上に造られた城跡。 平将門の時代、『将門記』に見られる平国香の弟で平将門の叔父の良正が本拠にした「水守営所」がこの場所と推定されている。 その後、戦国期は常陸国守護職の小田氏の支城であったと考えられている。 北側と東西が現在でも水田となっており、当時は湿地帯で自然の要害だったと見られる。 城の規模は東西、南北とも約300m、水田との標高差はおよそ10mほどある。南側に空堀が掘られ虎口脇には櫓台が設けられていたとみられる。 堀の幅は最大で約30m、深さ約10mもある大規模なものだった。 現在は北端に近い場所に「水守城址」の碑が建てられている。 つくば市水守。水守城跡の地図 ![]() 水守城址碑 大御堂のスダジイ 筑波山大御堂の西側参道沿いにある。筑波山のスダジイ、筑波山のシイとも呼ばれる。樹齢400年を越えるとされる。 樹冠の大きさ、根張の豪快さに圧倒される。 つくば市筑波748。筑波山大御堂の地図 ![]() ![]() 大御堂のスダジイ(左)、同じく全景(右) 大穂地区 若森県庁跡 わかもりけんちょうあと1869(明治2)年に設置された若森県の庁舎跡。400平方m超の規模があった庁舎はじめ、知事などの公邸、番所、牢舎、長屋などの施設があった。 若森県庁跡は、戦国時代、下妻城主の多賀谷政経が築城した若森城が前身。佐竹氏が、小田氏攻略の拠点として陣を構えたという記録も残っている。 江戸時代には旗本の堀田氏が陣屋を置いていたが、それも幕末の1863(文久3)年に撤去されていた。若森県庁は、この陣屋跡に整備された。 現在は建物の遺構はなく、若森城時代からあると見られる土塁などが残っている。茨城県道19号取手つくば線沿いで、道沿いに小さな案内板があるのみ。 つくば市若森。若森県庁跡の地図 ![]() 若森城の土塁の遺構 前原観音堂 まえはらかんのんどう 駒込観音。本尊は千手観音。慶長年間(1596〜1615年)の建立とされる。つくば市内の建築物の中でもかなり古い部類に入る。 府中(現茨城県石岡市)にあった堂を、江戸時代、この地に移したものという。 常陸西国三十三札所第24番札所。吉沼集落の街道沿いには、24番札所を示す石柱の道しるべがある。 つくば市吉沼。前原観音堂の地図 ![]() 公民館の脇にひっそりと建つ前原観音堂 小貝川の渡しと道祖神 現在のつくば市吉沼と下妻市大園木は、古来、常陸国と下総国を結ぶ重要な道で、ここには古くから渡し舟があった。 江戸時代に木橋が架けられて以降も、度々洪水によって木橋は流され、そのたびに渡し舟が復活し、1914(大正3)年まで途切れながらではあるが存続していた。 渡しの両岸には、旅の安全を祈願する道祖神が祀られていた。吉沼の道祖神は、宝珠と竿を失っているが六地蔵形宝憧と呼ばれるもの。 つくば市の文化財に指定されている。 なお、この渡し周辺は、平将門と叔父・平良兼が戦った「子飼の渡し」の古戦場でもある。 下妻市側堤防上には、史跡・子飼の渡しの標柱が建っている。 つくば市吉沼。道祖神の地図 ![]() ![]() 吉沼にある道祖神(左)下妻市側から「子飼の渡し」の標柱ごしに吉沼側をのぞむ(右) 大穂のウメ 茨城県指定天然記念物。民家内にある。樹齢は推定約300年。樹高約6m、目通り幹周り約3m。 野梅系の白梅。同家の先祖が伊勢参りの記念として、江戸中期に植えたと伝わっている。 現在も人が住んでいる住宅のため、見学などの際は敷地などに無断で入らないように注意が必要。 つくば市吉沼。 ![]() 大穂のウメ。民家内にあるので、無断で入らないように注意 太政官布告高札場 つくば市指定文化財。1874(明治7)年、当時の戸長(村長)が、自宅敷地内に自費で設置した。 1873(明治6)年8月に出された「違式かい違条例」(軽犯罪法の前身)を木札に写し、掲示している。 つくば市吉沼。太政官布告高札場の地図 ![]() 太政官布告高札場 岩崎不動院 岩崎の不動様として、近隣の人たちに信仰されている。成徳院。本堂は1754(宝暦4)年の建立という。 つくば市長高野。岩崎不動院の地図 ![]() 岩崎不動院 薬師堂 大曽根 薬師様。薬師堂は、明治時代、現在のつくば市玉取にあった薬王院から移築されたもの。 薬王院は、一ノ矢八坂神社の別当寺だったが、明治に入って廃仏毀釈の影響で廃寺となった。 薬師如来、不動明王が祀られている。薬師堂は江戸時代、宝永年間(1704〜10年)の建立という。 もとは茅葺屋根だったが、現在はトタンで覆われている。 つくば市大曽根。薬師堂・大曽根の地図 ![]() 薬師堂 薬師堂 吉沼 つくば市吉沼、金蔵院の南側にある薬師堂。 つくば市吉沼。薬師堂・吉沼の地図 ![]() 薬師堂 薬師堂 吉沼 つくば市吉沼の最南部にある薬師如来を祀る堂。1728(享保13)年6月23日、稲葉源兵衛氏により建立。 現在の堂は2024(令和6)年4月の再建。 つくば市吉沼。薬師堂・吉沼の地図 ![]() ![]() 薬師堂(左)、薬師堂越しに筑波山を望む(右) 安産不動尊 大曽根 つくば市大曽根にある安産不動尊。 つくば市大曽根。安産不動尊・大曽根の地図 ![]() 安産不動 子安観世音 大曽根 つくば市大曽根にある子安観世音。 つくば市大曽根。子安観世音・大曽根の地図 ![]() 子安観音 文殊堂 大曽根 つくば市大曽根にある文殊堂。文殊菩薩を祀る。 つくば市大曽根。文殊堂・大曽根の地図 ![]() 文殊堂 豊里地区 田倉の三匹獅子 たくらのさんびきししつくば市田倉に伝わる民俗芸能で、つくば市の無形民俗文化財に指定されている。 しかし、定期的に舞うものではないことから、1985(昭和60)年の科学万博で披露されて以降舞われることはなく「幻の獅子舞」となっていた。 三匹獅子は、約300年前の江戸時代中期、当地に疫病が流行した際、この厄災を取り払おうと舞われた。 その後は、神社の遷宮や鳥居の通り初め、橋梁の渡り初め、雨乞い祈願など、不定期に請われて出舞していた。 「七度半」の出迎えを受けて出舞するというほど格式が高く、明治維新前までは正装した20人以上の露払いを従えていたと伝わる。 雄獅子、雌獅子、子獅子からなり、胸には太鼓をつける。入場の際は「とおり」という曲で進み、 「おかざきの舞」に始まり、「雌獅子の舞」、「雄獅子の舞」「子獅子の舞」と続き、最後に雄獅子が悪魔を退治するところを現したという 「ぼんてんとり」でクライマックスを迎え終了となる。時間は約20分。 2021(令和3)年3月28日、つくば市田倉の八幡神社境内で36年ぶりに披露された。 かつては、田倉地区の長男のみに伝承が許されたというが、今回は「田倉三匹獅子保存会」が中心となって復活させた。 2023(令和5)年6月17日、新しい獅子頭が完成し田倉八幡神社で「入魂式」が行われた。 従来の獅子頭は江戸時代に作成されたもので、今後獅子頭が破損などした場合でも修理が難しいことから、 長く伝統芸能を伝えていくためにも新調された。入魂式後には新しい獅子頭によって舞が披露された。 ![]() ![]() 36年ぶりに披露された田倉の三匹獅子、手前にたてられているのが悪魔に見立てた「ぼんてん」(左)、 新しい獅子頭の「入魂式」(右) ![]() ![]() 新しい獅子頭でのおかざきの舞(左)、同じく新しい獅子頭での舞、ぼんてんを倒し悪魔退治を表現(右) 手子生城跡 てごまるじょうあと 八田知家の三子、知経が正治年間(1199〜1201年)に築いたとされる。二重の堀をめぐらした平城、現在はほとんどが失われているが、わずかに本丸跡周辺の堀が残ってる。 北条から谷田部、土浦から石下、下妻へ通じる要衝地で、小田氏にとって重要な場所だった。南北221m、東西201mの規模があった。 1574(天正2)年、小田城が佐竹氏によって落城すると、城主の小田氏治は、手子生城に入り、小田城奪還を図ったが失敗。 1588(天正16)年、手子生城も落城した。手子生城は、小田四天王の一人、菅谷政光の孫、範政が入り、1600(慶長5)年の関が原の戦いで、徳川方につき戦功をあげた。 1698(元禄11)年、菅谷氏の国替えにより廃城となる。なお、手子生は、手子丸、手配と呼ばれており、菅谷範政が1603(慶長8)年、徳川家康から領地を安堵されたことに伴い、手子生に改めた。 つくば市手子生。手子生城跡の地図 ![]() 城跡碑と堀がわずかに残る手子生城跡 長峰城跡 ながみねじょうあと 1479(文明11)年、豊田城の出城として豊田四郎将軍平治元の叔父、長峰右近将監正次の築城。 城跡碑が、茨城県道24号土浦境線、長峰橋のつくば市側の北側にある。 城の西側に小貝川が流れ、東側と北側、それに南側の三方は、現在畑などになっているが、当時はいずれも低湿地帯に囲まれていたと考えられ、天然の要害の地だった。 つくば市上郷665−4。長峰城跡の地図 ![]() 小貝川の左岸に建つ城跡碑 十一面観音堂 じゅういちめんかんのんどう 横町の観音様として親しまれている。峰出山高祖寺観明院(ほうしゅつざんこうそじかんみょういん)跡で、明治初年に廃寺となった。 十一面観音を安置する観音堂だけが残っている。観明院は、もともと高野山金剛峰寺出身の僧侶が土中に光り輝く観音様を見つけて本尊にし、開山したとの記録がある。 本尊の十一面観音は、元禄期の作といわれている。 また、高さ1寸8分(約5〜6cm)の銅製の平安時代後期作の天部形立像、それに室町時代作の不動明王立像、 南北朝時代の延元4(1339)年の記銘がある阿弥陀如来の浮彫の緑泥片岩製の青板碑がある。 境内には、寛永6(1629)年の銘がある大日如来の板碑がある。つくば市指定文化財=下記参照。 つくば市上郷。十一面観音堂の地図 ![]() 十一面観音堂 大日如来像碑 つくば市上郷の十一面観音堂境内にある。大日如来は浮彫りで鼻の大きいのが特徴で胎蔵界の法界定印を結んでいる。黒雲母片岩製。 「寛永六年二月」の銘がある。つくば市指定文化財。 つくば市上郷。十一面観音堂の地図 ![]() 大日如来像碑 石造六角地蔵宝幢 つくば市上里の遍照院境内に3基ある。2基が参道に、1基が地蔵堂にある。室町時代の建立。花崗岩製で高さ166cm。 六角幢の部分に地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天道を表す六地蔵が浮彫されている。 つくば市上里。石造六角地蔵宝幢の地図 ![]() 石造六角地蔵宝幢がある地蔵堂 ![]() ![]() ![]() 地蔵堂にある石造六角地蔵宝幢(左)、同じく参道左側(中)、同じく参道右側(右) 薬師堂 沼崎 つくば市沼崎にある薬師堂。 つくば市沼崎。薬師堂・沼崎の地図 ![]() 薬師堂 大日堂 つくば市上郷にある。大日堂は古墳(台宿古墳群1号墳)の上に鎮座している。 大日堂を中心に向かって左側に愛宕神社、弘法大師、白山神社、右側に御鷲神社、熊野権現神社が祀られている。 つくば市上郷。大日堂の地図 ![]() ![]() 大日堂(左)、全景(右) 雄山寺板碑 阿弥陀如来種子碑。つくば市手子生の雄山寺境内にある。板碑は黒雲母片岩製。高さ約140cm、幅約160cm、厚さ約10cm。 建長年間(1249〜55年)に菅谷為久が豊田為基のために建立したとされる。 表面に阿弥陀如来を表す梵字(キリーク)が刻まれている。つくば市指定文化財。 つくば市手子生1005。雄山寺の地図 ![]() 雄山寺阿弥陀如来種子碑 福寿増長祈願碑 ふくじゅぞうちょうきがんひ つくば市上郷の春日神社境内にある。板碑は、高さ138cm、幅75cm、厚さ15cmの雲母片岩製。 つくば市指定文化財。 上部に日天、月天、中央に七言の詩偈(しげ)が刻まれている。左端には「慶長十二年(1607年)十月吉日」の年紀がある。 雨乞石ともいい、旱魃のとき、この板碑を担いで小貝川に入り、雨乞い祈願したと伝えられている。 つくば市上郷833。春日神社・上郷の地図 ![]() 福寿増長祈願碑 瀧王大権現 この地を瀧(たき)という。扁額には「瀧権現宮」とある。 神社は公民館の敷地内にある。境内には、南北朝時代の様式を持つ五輪塔が2基ある=下記参照。 同じく境内には月読尊などが祀られている。 つくば市上郷。瀧王大権現の地図 ![]() 瀧王大権現社殿 瀧大権現 創建等は不詳。 扁額には「皇紀二千六百年 霜月十五日」とあり、1940(昭和15)年11月15日の奉納。 境内は江戸時代の上郷陣屋跡の一角。同敷地内には人足寄場もあった。 つくば市上郷。瀧大権現の地図 ![]() ![]() 瀧権現社殿(左)、同じく鳥居(右) 石造五輪塔 つくば市上郷の瀧王大権現境内にある。いずれも南北朝時代の様式を持つ五輪塔2基。花崗岩製。つくば市指定文化財。 つくば市上郷。瀧王大権現の地図 ![]() 瀧王大権現前にある2基の石造五輪塔 石造六角地蔵宝幢・石造層塔 つくば市酒丸の旧観音寺跡(現在は中東農村集落センター)にある。両方とも花崗岩製で、16世紀のものとみられる。 石造層塔は現在5重層塔だがもとは7重の層塔だったと考えられている。いずれもつくば市指定文化財。 つくば市酒丸。中東農村集落センターの地図 ![]() ![]() 石造六角地蔵宝幢(左)、石造層塔(右) 竹垣君徳政之碑 江戸時代、この地の代官を務めた竹垣三右衛門の徳政を伝える碑。つくば市上郷の金村別雷神社境内にある。 竹垣代官は、1793(安政5)年から1814(文化11)年まで22年間、上郷村角内の陣屋を拠点に今鹿島村、酒丸村、安食村、鬼ケ窪村、真瀬村、高須賀村、 牛縊村、木俣村、中別府村、下別府村を治めた。当時貧しい村々だったが、竹垣代官は貧困から生まれてきた赤ん坊を殺す間引きを禁止。妊婦に米を与えるなどした。 また、子供が一人前になると、農作業が効率的にできるよう農具を与えるなどした。 竹垣代官が職を辞して没した翌年の1815(文化12)年、地元の有志により建立された。 碑文は、江戸の書家で儒学者でもあった亀田鵬斎が撰文及び揮毫した。 間引きを禁止したことから、この日にお参りすると子宝に恵まれると伝わる。 つくば市上郷。金村別雷神社の地図 ![]() 竹垣君徳政之碑 竹垣君徳政之碑 今鹿島 つくば市今鹿島にある。上記碑同様、江戸時代の代官、竹垣三右衛門の徳政を伝える碑。1892(明治25)年建立。金村別雷神社の碑とほぼ同じ形. つくば市今鹿島。竹垣君徳政之碑の地図 ![]() 竹垣君徳政之碑 聖徳太子報恩碑 新1万円札の肖像になった渋沢栄一翁の揮毫による聖徳太子報恩碑。上郷小学校入口にある。 正面に渋沢翁の揮毫した「聖徳太子報恩碑」と「子爵 澁澤榮一書」と刻まれている。 この碑は『渋沢栄一伝記資料』に記載がある。同地の有力者、土田右馬太郎が揮毫を依頼、建立予定は「昭和2年9月」などと書かれている。 同碑の後面には「昭和二年十月」の日付とともに「上郷村長 土田右馬太郎」とある。 つくば市上郷。聖徳太子報恩碑の地図 ![]() 聖徳太子報恩碑 上郷道角八坂神社のけやき つくば市上郷の八坂神社の境内にあるけやきの巨樹。 つくば市上郷。上郷八坂神社の地図 ![]() 上郷道角八坂神社のけやき 谷田部地区 五角堂ごかくどう茨城県指定文化財。江戸時代後期、「からくり伊賀七」の異名をとった飯塚伊賀七の設計による正五角形の建物。 飯塚伊賀七は、江戸時代の谷田部藩にあって代々名主を務めた農家に生まれる。自動人形ロボットや飛行機などの設計を行った。 蘭学、和算、暦学など多方面で才能を発揮した。五角堂は、一辺約4.6mの正五角形で、内部には伊賀七による木製の和時計がある。 なお、近くにあるつくば市立谷田部中学校には、伊賀七を記念し、玄関正面に五角堂があり、同校のシンボルとなっている。内部は音楽室となっている。 つくば市谷田部1945。五角堂の地図 ![]() 五角堂の建物 羽成観音堂はなれかんのんどう 1592(文禄元)年、牛久城主・由良国繁が、この地方の戦乱で討死した人たちの霊を弔うため建立した7観音、8薬師の一つ。 地元では馬頭観音として近隣の人々の信仰を集めている。常陸西国三十三札所第21番札所。 つくば市羽成1124。羽成観音堂の地図 ![]() うっそうとした森の中にある重厚なつくりの観音堂 谷田部藩陣屋の玄関 熊本54万石の藩主・細川忠興の弟、細川興元は、下野・茂木(現在の栃木県茂木市)に1万石の領地を賜り大名となった。 その後、大坂の陣の戦功が認められ、常陸・筑波郡、河内郡で6000石加増された。 2代藩主、細川興昌の時代に、陣屋を谷田部に移した。玄関は陣屋御殿のもの。明治期に玄関のみ移された。 当時は茅葺だったが、その後トタン葺き、さらに瓦葺に改修された。玄関の正面上部には細川家の家紋、九曜紋が刻まれている。 つくば市谷田部。谷田部藩陣屋の玄関の地図 ![]() ![]() 移築され、公民館の一部となっている陣屋の玄関(左)、玄関の正面に刻まれている九曜紋(右) 台町観音堂 善通寺。台町行屋。十一面観世音菩薩が祀られている。つくば市谷田部の台町地区にある。 東日本大震災で被災しかつての観音堂は取り壊され、現在は小さな祠に建て替えられている。 つくば市谷田部。台町観音堂の地図 ![]() ![]() 旧台町観音堂(左)、現在の観音堂(右) 大渡山不動尊谷田部 旧不動並木の北側にある。 つくば市谷田部。大渡山不動尊の地図 ![]() ![]() 不動尊(左)、改装前の不動尊(右) 島名香取神社の大けやき 島名香取神社の鎮守の森にある大けやきで社殿の北側に2株ある。 いずれも樹高15m以上、目通り幹回り4m以上ある。つくば市指定天然記念物。 つくば市島名。島名香取神社の地図 ![]() ![]() 島名香取神社、西側にある大けやき(左)、同じく東側にある大けやき(右) 不動堂南中妻 つくば市南中妻にある不動堂。1979(昭和54)年に奉納された扁額には「不動堂 安福寺 第三十八番」とある。 つくば市南中妻。不動堂の地図 ![]() 不動堂 滋眼観音 つくば市柳橋にある。 つくば市柳橋。滋眼観音の地図 ![]() 滋眼観音 願掛地蔵尊 つくば市手代木にある。 つくば市手代木。願掛地蔵尊の地図 ![]() 願掛地蔵尊 獣霊碑 「獣」とは主に牛馬を指す。かつて、荷物の運搬などの主役は、多くの牛馬だった。 その際、命を落とした牛馬の供養塔として、1924(大正13)年に建立された大型の石碑。 高さは約3mある。 つくば市谷田部。獣霊碑の地図 ![]() 獣霊碑 谷田部町立小野川小学校分校跡 1979(昭和54)年3月31日に閉校した小野川小学校分校跡の碑。 碑文によると同校は1878(明治11)年、手代木天神下に設立。1927(昭和2)年7月、この大塚の地に移転した。 研究学園都市の建設に伴い、手代木南小学校の開校によって分校の役目を終えたという。 その後、1979(昭和54)年9月、分校があったことを示すこの碑が手代木、小野川、西大沼地区の人たちによって建立された。 なお碑は、当時の小学校校門の門柱とみられ、それ以外当時の面影を残すものはなく、跡地はマンションになっている。 つくば市松代4−11−1。小野川小学校分校跡の地図 ![]() 小野川小学校分校跡の碑 桜地区 太塚家住宅おおつかけじゅうたく国指定文化財。18世紀前半に建築された、カヤぶき寄棟造りの直家。つくば地方の伝統建築を伝えている。 太塚家は、太田道灌の血筋と伝えられ、小田氏の家臣となっていたが、小田氏が敗れた後、帰農し、代々名主を務めた。 現在も人が住んでいる住宅のため、見学などの際は敷地などに無断で入らないように注意が必要。 つくば市栗原835。太塚家住宅の地図 ![]() 太塚家住宅の長屋門 筑波山知足院中禅寺仁王門金剛力士像 筑波山知足院中禅寺仁王門(現在の随神門)にあった金剛力士像(仁王像)が、明治時代の廃仏毀釈の難を逃れ東福寺に移されている。 金剛力士像は、江戸時代初期の1663(寛永10)年、仁王門の完成とともに建立された。 作者は相州鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)の大仏師慶海の作という。 明治の廃仏毀釈によって多くの筑波山中禅寺の仏教施設が破壊されるなか、金剛力士像は1870(明治3)年、 桜川の水運を利用し、沼田河岸から松塚河岸まで筏(いかだ)で運ばれたといい、流れ仁王との異名を持つ。 つくば市松塚665。東福寺仁王門の地図 ![]() ![]() 金剛力士像吽形像(左)、同じく阿形像(右) 金田官衙遺跡こんだかんがいせき 国指定史跡。8世紀前半から9世紀中ごろの郡衙関連遺跡。同時代に存在した河内郡の郡衙。正倉院、官衙地区、仏教関係遺跡が一括して把握できる貴重な遺跡とされる。 つくば市立桜中学校周辺が遺跡。 つくば市金田1473−1。 身替阿弥陀如来 室町時代の元亀年間(1570〜73年)、この地を治めていた花室の領主、大津長門が祈願尊として祀った。 言い伝えでは、領主が大熱に冒され苦しんでいると、あるとき阿弥陀尊が現れ「我大津氏の守護なり、明日井戸に来たれ」と告げたという。 翌日、調練場の馬洗井戸の底からまぶしいほど照り輝く岩が見つかった。この岩を浄めてこの地に安置したところ、瞬く間に大熱は治癒したとされる。 現在でも霊験新たかな身替阿弥陀如来として、近隣の人々の信仰を集めている。また、境内には大きなツゲの木があり、つくば市の天然記念物に指定されている=下記参照。 つくば市花室。身替阿弥陀如来の地図 ![]() 身替阿弥陀如来 花室の大つげ 身替阿弥陀如来の境内にある。イヌツゲで樹齢およそ500年とされる。枯れた根の部分から3本の幹が出ておりこちらもすでに古木の貫禄十分となっている。 樹高約5m、目通り幹回り約1m。つくば市指定天然記念物。 つくば市花室。花室の大つげの地図 ![]() 大つげ 朝日観音堂 常陸西国三十三札所第7番札所。 つくば市金田。朝日観音堂の地図 ![]() 朝日観音堂 阿弥陀堂東岡 つくば市東岡にある阿弥陀堂。 つくば市東岡。阿弥陀堂の地図 ![]() 阿弥陀堂 不動堂柴崎 1712(正徳2)年の建立。1945(昭和20)年、焼失、再建された。安産に御利益があるとして広く信仰されている。 つくば市柴崎668−1。不動堂・柴崎の地図 ![]() 不動尊 天狗塚 天狗党の残党と当時のこの地を治めていた土浦藩の兵士との戦いがあり、戦死した天狗党19人が埋葬されている。 つくば市栗原。天狗塚の地図 ![]() 天狗塚 六地蔵 つくば市東岡にある。宝暦年間(1751〜63年)の建立。仏教の六道思想からきており、衆生の苦悩を救済するという6種の地蔵菩薩。 檀陀地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障地蔵、日光地蔵で構成されている。 つくば市東岡。六地蔵の地図 ![]() 六地蔵 栗原鹿島神社の大けやき 栗原鹿島神社の拝殿のすぐ脇にあり、御神木とされる。推定樹齢約500年。樹高約20m、幹回り約7,3m、根回り約11m。つくば市指定天然記念物。 つくば市栗原。栗原鹿島神社の地図 ![]() ![]() 栗原鹿島神社の社殿前にある大けやき(左)、秋の葉を落としたけやき(右) 愛宕山古墳 直径20m、高さ4mの円墳。頂上に愛宕神社が祀られている。 つくば市栗原2762。愛宕山古墳の地図 ![]() 愛宕山古墳 慶長板碑 日記侍成就碑で、1603(慶長8)年9月、栗原村の人たちが7年間続けた「日記侍」の満願成就を記念して建立した。 日記侍は、豊作や極楽往生などを願った庶民信仰とされる。碑には金剛界大日如来を中心とする五智如来をあらわす梵字が刻まれている。 つくば市指定文化財。 つくば市栗原。慶長板碑の地図 ![]() 慶長板碑 石投げ地蔵いしなげじぞう 鎌倉時代、執権の北条時頼が建てた物と伝えられる。当時は戦乱のため人心が乱れていたとされ、それを信仰によって治めるのが目的という。 石投げ地蔵の由来は、罪を犯した人や悪い心を持った人が、この地蔵の前を通ると、どこからともなく石が飛んできたからと伝えられている。 つくば市金田。石投げ地蔵の地図 ![]() 石投げ地蔵 茎崎地区 泊崎大師堂はっさきだいしどう大同年間(806〜810)、弘法大師(空海)がこの地を訪れ千座護摩を修めたところに建てられたと伝えられている。 昔から縁結びと長寿にご利益があるされている。別名、弘法大師堂。 いまではここにお参りすると長患いせずに人生の最後を迎えられるとして多くの人々の信仰を集めている。 また牛久沼を見下ろす高台にあり、風光明媚な場所。大師堂の参道には「茨城百景牛久沼」の碑がある。 なお、大師堂のある場所はつくば市の最南端。 つくば市泊崎。泊崎大師堂の地図 ![]() ![]() 牛久沼を見下ろす高台にある大師堂(左)、大師堂から牛久沼の眺望(右) 弘法の七不思議こうぼうのななふしぎ 泊崎大師堂付近に残る弘法大師の伝説。 1、駒の足跡(こまのあしあと)。駒(馬)に乗って弘法大師が現れ、小川に架かる石橋を渡ったときに足跡が残ったとされる。 2、木瓜(ぼけ)。弘法大師がこの地を訪れる際通った山道の木瓜は、はそれ以来、実をつけなくなったという。 3、逆松(さかさまつ)。弘法大師が持っていた松の杖が根付いたものとされる。 4、硯水(すずりみず)。弘法大師が字を書くときに使ったとされる湧き水。 5、独鈷藤(とっこふじ)。大師堂の藤の節が独鈷の形に似ていることからその名がつけられた。 6、五葉の杉(ごようのすぎ)。大師堂にあった杉の木の葉が5枚の葉をつけていたことから。 7、法越(のっこし)。弘法大師が、馬に乗って川を渡った場所が法越で、以来その場所には藻が生えなくなった。 −−現在、駒の足跡と逆さ松が大師堂にあり、硯水は失われていたが、大師堂の近くに再現された。そのほかは現存しない。 硯水の地図 ![]() ![]() 大師堂の参道にある逆さ松(左)、逆さ松の左前にある駒の足跡(右) ![]() 再現された硯水 下横場のグミ 樹齢500年と推定される大グミ。1964(昭和39)年3月31日、茨城県の天然記念物に指定。 室町時代に菩提樹として植えられたものと考えられている。樹高約7m、根元の幹周り約2.3m。根元付近から多くの枝が張り出している。 もとは個人所有の山林内にあったが、研究学園都市建設にあわせて、このグミを中心に高野台緑地として整備された。 現在も樹勢は盛んで、4月〜5月にかけて、淡黄色の花を咲かせ、6月には1.5cmほどの実をつける。 つくば市高野台3−6−1。下横場のグミの地図 ![]() 下横場のグミ 下岩崎観音堂 羽成観音堂と同じく1592(文禄元)年、牛久城主・由良国繁が、この地方の戦乱で討死した人たちの霊を弔うため建立した七観音八薬師の一つ。 本堂は江戸時代前期の建立。 つくば市下岩崎。下岩崎観音堂の地図 ![]() 下岩崎観音堂 子育延命地蔵尊 小田家の祖、八田知家の守り本尊とされ、行基の作と伝えられる。祈願すると子供ない人には子供を授け、病弱の子供は健全に育つという。 福徳延命にご利益があるとされる。1408(応永15)年、小田家12代持家公が、家臣の牛久城主・岡見治資に命じて河内郡高崎村に像を安置したのが始まりとされる。 1473(文明5)年には、大阿闍梨灌良法印をもって一寺を建立。高雲山龍蔵寺成就院とした。 江戸時代、1629(寛永6)年、領主の山口但馬守が、世継ぎがいないため、子授けの祈願をしたところ、男子が誕生。 同じく1833(天保4)年には、山口伊豆守が子授け祈願したところ無事世継ぎの男子が誕生した。霊験あらたかなお地蔵様として近隣の信仰を集める。 2011(平成23)年7月、地蔵堂を新築。あわせて参道を整備した。 つくば市高崎。子育延命地蔵の地図 ![]() 子育延命地蔵 念向寺のイチョウ 念向寺の本堂前にあるイチョウ。樹高約28m、目通り幹回り約6m。。つくば市指定天然記念物。 つくば市若栗。念向寺の地図 ![]() 念向寺のイチョウ 念向寺のシイ 念向寺の本堂脇にあるシイ。樹高約34m、目通り幹回り約4m。樹齢は数百年とされる。現在は主幹の途中から切られている。つくば市指定天然記念物。 つくば市若栗。念向寺の地図 ![]() 念向寺のシイ 月読神社のシイ 樹齢約700年とされる。樹高約30m、幹の太さ約8m。 同神社の御神木で、本殿脇にある。 つくば市樋の沢。月読神社の地図 ![]() ![]() 月読神社のシイ(左)、幹部分(右) 稲荷塚古墳 住宅地のすぐそばにある。塚上に稲荷神社が祀られている。 つくば市上岩崎。稲荷塚古墳の地図 ![]() 稲荷塚古墳 岡見五郎兵衛供養塔 牛久城主、岡見五郎兵衛は、1588(天正16)年、高見原で下妻の多賀谷氏と戦い、敗走の途中、この地で自刃した。 自刃の地に後年、供養塔が建てられた。 つくば市高崎。岡見五郎兵衛供養塔の地図 ![]() 岡見五郎兵衛供養塔 永作の舟渡跡 下岩崎地区と小茎地区を結ぶ渡し舟の下岩崎側の跡。茎崎橋の南側にあり、茎崎橋が架橋された昭和初期まで運航されていた。 今は何も残っていないが、茎崎運動公園下の道路脇に船渡があったことを示す案内板がある。 つくば市下岩崎。永作の舟渡跡案内板の地図 ![]() 永作の舟渡跡案内板 天神下の渡し場跡 下岩崎地区と小茎地区を結ぶ渡し舟の小茎側の跡。渡し場近くには、天神山があり、そこに天神様が祀られていた。 現在天神様は八坂神社境内に遷せられている。 こちらも何も残っていないが、急な坂を下りた道路脇に船渡があったことを示す案内板がある。 つくば市小茎。天神下の渡し場跡案内板の地図 ![]() 天神下の渡し場跡案内板
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